憐れみのゆえに

弥生台教会メッセージ 「憐れみのゆえに 4つの詩を味わいつつ」 岡崎新太郎兄 2013年12月8日

東京の街で頂いたクリスマスを思いおこすと・・・

貫井南町教会グレイビル先生の下で歩み、 3、4人の兄弟姉妹と老人ホームを訪問、70歳台の男性で理科の実験で生徒を傷付けてしまい人生が変わってしまった方、晩年身寄りのない人がイエス様から憐みを受けていること

弥生台教会に通っていた頃、大学の寮で裁判の劇をしたこと、一緒に語る、分かち合う仲間があったこと

若い時代にどういう風にイエス様に出会うか・・・こうしている今は、考えられなかった 。

私たちは限りない憐みを受けている。

北海道メノナイト教会、矢口先生の書かれた詩集「天国の宴会」より 4つの詩を味わいつつ

1) 預言者イザヤ

権力のないものがどのようにして民を救うことができるのか

山口県下関は安倍晋三氏の選挙区である、彼は権力と言うものを通してこの民を救うという一念がある。

山口BICの教会は主のしもべとしてどのように地域で歩んで行くかを問われる。

2) ザアカイ

「 そんなことはもうどうでもよくなったのだ、 汚れた金で富んではいたが君の心は空っぽだった、 今その

洞窟いっぱいにイエスの声がこだまし始めた」

アナバプテストの歴史は、初代の兄弟たちは、聖書を自分たちで読んだ。聖書から自分たちの生き方を探り、聖書に従って歩もうとした。 幼児洗礼ではなくイエス様によって見出されてイエス様の新しい命に生きることを信じた人たちが一つの群れを作った。 教会の体制や教会で語られるメッセージではなくて聖書からイエス様の姿を探り当てて。イエス様の声が私にこだましている、イエス様の声がいっぱいになっている経験をした。

アナバプテストの初代の教会の兄弟姉妹たちにとっては、救われているのかどうかイエス様の十字架の意味は何なのかがテーマではなくイエス様によって新しく生まれた私たちがどのように生きていくかがテーマであった。

イエス様にあって新しくうまれた私たちは日々新しく作り変えられて天国目指して歩みに入れられた。

―コリントⅡ4:1-4―

イエス様の声がこだまする故に私は落胆しません、イエス様の声によって歩くがゆえに悪賢く歩まず神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより神の御前で全ての良心にゆだねます。 イエス様と一緒に歩んでいるが故に、卑劣な隠れた行ないを捨て、思いめぐらして神の言葉をまっすぐに伝え真理を明らかにしていくことを一人ひとりの良心に訴えかける。権力によって人々の心を動かすことではない。様々な人間的な繋がりによって人々の心を自分に向けることではない。ただ神様の言葉を真直ぐに伝えることを 隣人の 良心に委ねること。

ザアカイの風貌は若い時は思いもよらないが50年60年歩むと自分もこの中の一人であるとわかる、イエス様が自分を見つけて下さってあなたの家に泊まるからと、あなたの罪を許すとか許さないとか、こう生きるべきとかではなく、イエス様ご自身が一緒に歩むよと言われた。クリスマスの物語は目を止めて下さるということ、ザカリア、マリア、ザアカイに。イエス様の憐みを受けたものとしてザアカイは歩みはじめた。

3) ディルク・ ウイルムス

ピーター・ウイルムス元宣教師の先祖であり、私たちの群れは何度もこの物語を心の中に反芻している訳である。 どのように私たちはこの人の模範、歴史の上での信仰の事実を受け取り、歩んで行くことが出来るか。

―ヨハネ福音書15:1~10―

何の準備もなく退職し、退職後出来ること、誘われることもなくて、畑仕事や子供に勉強を教えている。あれこれ手を出しているうちにどれが本当の自分か分からなくなった。今丁度ぶどうの木の枝が取り払われるような時期にきている。これはあなたのやることではないよ、これもこれもと。ザアカイのように心の内にイエス様の声がこだましたように、私の話した言葉によってあなた方は既に清くなっている(3節) 清くなっているというのは汚れを取り去って清くなっているというのではない。神にしっかりと結びつき他のものと混じり気がないということ。私がどうするこうするということではなく、既に全面的に私のものとされているということ

イエス様の命を離れては何もできない、あなたは何をしようとしているのか (5節)

退職後、イエス様の弟子となるにはどうしたら良いのですかと問うしかなかった。この世の仕事(梅光)をして教会の仕事をすることはそれは恵み深いことであったが、その時に取り落としたこと、できなかったこと、当時は思いもしなかったことが私の心の中に入ってきている。イエス様の命から離れないように歩むにはどうしたら良いか(7・8節) イエス様の愛の中にとどまっていよ(9・10節)

三本先生の教団聖会での話

・別紙参照

・聖書が教える救いをどう理解するのか、北海道メノナイト教会の信仰告白書にはイエス様の贖罪節に立ったイエス様の十字架とは何かは書き込まれていない、非常に大きく深い故に書き込むことができない、それぞれの信徒によってどう受け取っているか違いがある。

初代の人たちの十字架の理解は何だったのか、アナバプテストの信徒たち自身が十字架にかかるということであった。ですから「十字架はこういう意味であると言う」そういう神学的な理解や言葉にある操作ではなかった。イエス様は十字架を担われた、私たちもその十字架を担う、そこにイエス様を愛する私たちの愛がある、あるいは兄弟姉妹を愛する愛があると言うことを信じたのである。ウイルムスさんは、イエス様と全く同じように、私の敵である看守のために命を捨て十字架にかかりますという信仰であった。

4) ジーン・クラークの話

若い時代、大学紛争の時代、この詩のように真ん中に入ったが、それで正義が全うされるのかと言われた。

その時はメノナイトの信仰があったわけではなく、そこに行かなければと思って行っただけだったが、その時にも主が共にいて下さった。未熟な私にも主はその時一緒にいて下さったと今思う。若い時代も老いても、私たちは見えないまま歩んでいるところがある。私たちが日々歩んでいるのは何なんだろう、イエス様が私たちをどのように見いだし、目を留め、私達をどのようなものになるように導いていらっしゃるかということ、

揺れながらでも迷いながらでも私のところにとどまりなさい、私はあなたをあなたの群れをイエス様の愛するものとする、私の枝とする、実を結ぶものとする、イエス様に従って歩んで下さいということ

滝部伝道所は今、母と私2・3人の礼拝である。イエス様、どう歩んだらよいのですか、今日も誰も教会に来られませんでした、いつまで続くのですか? 私はイエス様が愛したようにもう一度イエス様によってここにいる人たちを愛するものに変えてください・・・そう祈る時に希望がある。

―ハバクク書2:1-4―

もう一つの幻があるからだ、それは終わりの時に向かって急ぐ、人を欺くことはない。たとえ遅くなっても待っておれ。

隣人を愛する働きそれはもう一つの幻があるから、この世が与える幻ではなくてもう一つの幻があるからです。