キリストの謙遜に倣う

アナバプテスト神学説教集 榎本和広 2013年11月03日

フィリピの信徒への手紙 2章1-11節 「キリストの謙遜に倣う」

今カリフォルニアのフレズノに住んでいます。スタインベック『怒りの葡萄』に基づく映画DVDを家族で見ました。映画は1930年オクラホマ地方での不作で、ある一家族が土地を奪われてカリフォルニアに向けて旅をするというものでした。映画の最後はフレズノに行く場面で終わります。わたしはいま、そのカリフォルニアの丁度真ん中にあるフレズノに家族と住んでいます。

フレズノには神学校があり、私は以前4年間滞在し、その後日本に来ました。ですが日本に赴任して後、突然の帰国となり、まさか再び同じ町に戻るとは思っていませんでした。移民ビザを取得するまで行ったり来たり。あちこちに出かけ落ち着きのない生活。2年間、将来の展望が見いだせない状況が続きました。

米国では、国民医療の問題の次は不法移民の問題と言われています。メキシコなど南部から入国し、不法で低賃金で働いている人たちが統計には表れませんが大勢います。移民手続きを経ない人々でも米国内で子供が生まれれば生まれた子供には市民権が付与されます。そのため、子供が米国市民権を得る一方で、不法移民の両親たちが子供たちが生まれると強制送還される、といった離散家族を生み出すような状況もあります。そしてまた、大学を出たけれども親に連れて来られた子供は合法的には仕事はできないなどの状況もあります。米国を目指すドリーマーズ。彼らは移民法の改正を求めています。カリフォルニアではそのようなヒスパニックの人々が多くいる中、わたしは「自分はここには来たくなかったのだ」という周りとはちがう感覚を持っていました。

まるで異国の地に連れて来られたよう。エリカとケンはすでに米国民。私だけが、一時帰国の予定で現地で足止め。そしてアメリカ現地の学校に子供も通い始める。私は、子供たちが大きな変化で大丈夫か?と心配したけれども、柔軟な子供たちは普通に学校に通い、「嫌だ」という言葉は聞いたことがない。どうやら、違和感を覚えているのは、私ひとりのようでした。「自分の意思に反してつれてこられた」と思った時に、心の支えとなった聖書箇所があります。

エレミヤ29章5節。バビロン捕囚のイスラエルの民への言葉。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をめとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」とあります。

この「平安」(ヘブル語では「シャローム」)は、新改訳聖書では、「その町の繁栄(シャローム)を祈りなさい」と訳されています。「シャローム」は、(平安、平和、繁栄)であり、満ち足りた状況です。ですが、イスラエルの民は、神の懲罰として捕囚の地にいます。自分の意思に反し「こんな所に来たくなかった」場所。そして、懐かしい自分の街を壊滅させた国にいます。「その町の平和を求めなさい」という言葉は、簡単なことではありません。

神の都エルサレムから離されたイスラエル民の悲痛な気持ちは、詩篇137篇に書かれています。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンをおもって私たちは泣いた。私たちを嘲る民が楽しむために。どうして主への賛美を奏でられよう」

私がエレミヤ書と出会ったのは、「何か心に訴えるものがあるな」とずっと心にとめていた聖書箇所が、違和感のある状況で響いてきました。

「平和のために祈る」ことはできる。しかし、「平和を求めよ。シャロームのために働きかけよ」と言われた場合、「わたしは一体何をしたらよいのですか」と戸惑ってしまう。

私は日本にいた時は、役割をもって奉仕させていただきました。TAFMCでは宣教師として、セミナーの計画をしたり、文書活動をしたり、東アジアとの交流を紹介したりしました。役割があれば、「平和を求めよ」と言われると行動が見えてきます。ですが、突然異郷の地に放り込まれ、「平和のために祈れ。働きかけよ」と言われた時に、一体わたしに何ができるのかと途方に暮れます。

聖書では、平和を求めよという言葉の前に、「家を建てて住み、そこに果実を植え食べなさい」とあります。これは、何も大きな働きをせよ、という言葉ではない。例えば、かくたる組織に入会して活躍せよ、とは言われていいないのです。政治権力をもって大きな仕事をすることではなく、捕囚に連れて来られた民ですから、普通の生活をしなさい。家族と過ごしなさい。神に祝福された家族の在り様で過ごしなさい。それが主にある平和につながっていく、と書かれているのです。最近、色々と思い廻らす中で、自分は違う次元で考えていたなと気づかされました。

クリスマスの記事は、ルカ福音書で「キリストが皇帝アウグストゥスの時にこられた」とあります。ここにわざわざ、「初代皇帝アウグストゥス」の名前が書かれています。アントニウス・クレオパトラの連合軍を打ち破ったオクタビアヌスが、権威と栄光と尊厳をまとってローマに赴任しました。ローマの平和は奴隷など虐げられた人々の犠牲により成り立つ。アウグストゥスにより、虐げる働きがますます転回していく時を同じくして、キリストがお生まれになる。キリストは小さな町でお生まれになった。大きな威光のアウグストゥスと、かたや小さな鄙の町ベツレヘムでキリストがお生まれになった。私が見落としていたことは、世界に対する救済貧困などの取り組みなど大きな枠組みでの働きがあります。ですが、聖書では、大きな世界的な出来事と同時に、小さな出来事、人知れずキリストが来られた、その両方を言っているのです。世界史の出来事であると同時に、私たち一人一人の心を内側から変革するできごと。マクロとミクロが両方バランスをとられた形で聖書には書いてあります。

「主の祈り」では、「御国が来ますように」に続いて、「私たちの日ごろの糧を与えたまえ」と祈ります。ともすれば、メノナイト系の教会では「自分そっちのけで社会に仕える」と見える姿も見受けられますが、一人一人が変えられて行くことによって、主は「平和を求めよ」と言われているのでしょう。特別な役割の有無ではなく、いまお前がそこに居る。家族と子供を顧みなさい。そしてキリストが一人一人を変えてくださることによって、大きな平和への運動につながっていく。そんな思いへと変えられました。

マサチューセッツ州の高校の卒業式で、ある英語教師が式辞を述べました。その英語教師は「君たちは特別ではない」と語りました。これは褒めちぎるアメリカ文化に反する言葉。ではなぜ特別ではないのか。それは、「みんな特別」だから。「自分が特別」と言って育てると、賞をもらうなど結果が目的となる。体験そのものを楽しみ、十分に味わうことができなくなる。心の奥で「隣の人は自分以下だ」という論理的帰結さえ生まれ、優越感に浸ることにもつながり、結局自己中心の虚構の世界に自分を置いてしまうことになってしまう。だから「自由意思と想像力を発揮すること。そして、自分以外の周りの人に、いかに益をもたらすことができるか考えて人生を歩むように」と勧めます。

他者を顧みる「セルフレスネス」こそが、自分自身に対してできる最良のこと。他の益となることこそが、自分自身に対して贈られる最良の贈り物であると。「自分の命を失う者はそれを見出すであろう」とある通りです。

主イエスは王のたとえ話をなさいました。「羊を右に、山羊を左に分けるように、すべての民を集め、「羊たちは病気の時に私を訪ねてくれた。」「私の兄弟であるもっとも小さい者にしたことは、私のためにしてくれたのだ。」と語ります。「私たちの周りにいるもっとも小さい者」にしたことが、神様にしたことになる。

羊たちは、賞品や褒められるために行ったのでなく、無私無欲で実行しています。そして「なすべきことをしただけです」と謙遜でありなさいとも語られています。日本語の謙遜は、控えめに過小評価した後でフォローしてもらいたい等見せかけの部分があります。奉仕の能力がありませんから他の人に、と、怠ける口実にもなる。ですが、キリストの強調点は、へりくだって何かを「する」点にあります。外野席で見るのではなく行動するのです。キリストは、死にいたるまで従順で謙遜に歩まれました。

ブドウ園の労働者の話では、一日中働いた人も最後の人も同じ賃金でした。「それはないんじゃないですか」ち不満を言う人の気持ちも私は判ります。ですが、「自分は特別な存在なのだ」と思う時に、それだけの報いを貰うべきだ。と考えてしまうのです。

「自分は特別な存在ではない」と認識し、「周りの人がすべて特別」から考えると、私をも特別な関係に迎えて下さった方に目が向きます。実績や、財産、評判、ではなく、「どれほど、隣人にとって役だったか」と、自分自身に基準を置くのではなく、隣人にとって益であったかが基準となります。「キリストにはかえられません」の賛美では、世の宝もまた富もキリストにはかえられません、と告白します。何気ない歌詞の中に、どれほどのチャレンジがあるか。

キリストのゆえに、正直さ、謙遜さを見つつ、自分が特別であると同様に、特別な愛を受けている隣人に、愛をもって仕えることができるように。キリストの本当にへりくだった姿にならって歩ませていただきたい。そして、相手を自分を優れた者として考え、他人のことにも注意を払う者とされたい。【編責石戸充】