Home‎ > ‎

説教 弟子マタイ

アナバプテスト神学説教集 東條隆進 20131005

マタイ福音書 9章9-13

「なぜ主は徴税人を弟子となしたか」

 

イエス・キリストにある弟子の道を求め、礼拝にあずかっております。マタイ福音書は、仕える主イエスさまのお姿を大切な模範とするアナバプテストの教会にとって、重要な福音書。そして12使徒の名前を冠する福音書は、マタイの福音書とヨハネの福音書になっている。マタイの福音書には、第五に弟子とされた者であることが記されています。

私は大学で教鞭をとっていました。大学では、自分の教え子に情熱も感じ、責任とミッションも感じます。教会では、洗礼を授けた者が、東條の弟子として立派に教会を建て上げて欲しいと願います。そしてもし、自分の生徒が失敗した場合は、宣教者としての私、教師としての私、伝道者としての私が、失格者だという意識が生じます。失格者。使徒パウロは、「自分は失格者となるかもしれない」という危機感を持って宣教の一生を過ごしました。

マタイはなぜ主の弟子となれたのか。私が教師であった場合マタイを弟子とすることはなかったでしょう。山口組の組長の存在を誰が自分の弟子とすることができましょうか。私には不可能です。「親分はイエス様」という本もありますが、受刑者を直属の弟子とするのは極めて難しい判断があります。

マタイは取税人であり税を徴収をしました。日本では消費税が8%となりますが、ローマ帝国では、マタイは自分の同胞から税を不正に収奪し、ローマ帝国に捧げました。イスラエル民族として、絶対にしてはならない職業でした。存在自体が罪人。そのような者を、自分の弟子とするとは、一体どういうことなのだろうか。

ご存知の通り、旧約聖書はヘブル語で、新約聖書はギリシャ語で書かれております。「私についてきなさい」とイエスさまは、徴税所にいた人物に声をかけました。マタイは即座に従います。先にどういう人生が待っているか判らない。だが、即座に立ちあがり従いました。イエスさまは、食事をなさるために、マタイを含め弟子たちと食卓につきました。日本語では文脈があいまいですが、ギリシャ語では、「食事をする(アナケイマイル)」という言葉。食事をするために横になった、という意味です。座るのではなく、食事を寝そべる、それがイスラエルの生活習慣でした。そこに、罪びとと呼ばれたマタイも一緒になって、横になって食事をしたのでした。

その光景をみた律法学者たち。自分たちこそ、神に選ばれたピュアな信仰者であると自認している人たち。ファリサイ人たちにとっては、異様な雰囲気に見えました。私にも同じでしょう。そこで、さっそく質問、攻撃の矢が飛んできます。

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人と罪びとと一緒に食事をしているのですか」

マタイは、地の民(アムハアレツ)。仏教では、縁なき衆生、罪人と同格の取税人でした。そのような罪びとたちと一緒に食事をするとは、イスラエル民族への挑発ともとられます。

なぜ罪びとを。イエス様は、それ以上のことを予期して、マタイを弟子としました。そして、律法に即した回答をなさいますが、最初は、イエスさまからは、律法学者たちが期待した言葉とは違う答えが返ってきます。

「健康な者には、医者はいらない。病者には医者が必要である」と。つまり問題設定が違っていることを示した答えでした。実はあなたがたは全員、病人なのである。一番深刻な魂の病気なのだ、と。肉体の病気は懸命に治療をする。精神の病気は回復が難しい。だが、魂の病気はどうすればよいのか。私は「勝ち組はウツ、負け組はニート」といっていますが、一体、魂の病気にはどうすれば良いのだろうか。

イエス様の答えは、自身が判っていない。魂に病気があることを、人類は判っていない。存在さえ気づかない、ことが示されています。むしろ、科学の発展によって、魂が見えなくなってしまっている。イエス様は、肉体の病気よりも、精神の病気よりも、もっと深刻な病気が魂の病だと指摘します。そして、モーセ律法、トーラーの世界は、魂の病気には何の役にも立たない。私が来たのは、病気をいやすために来たのであると、イエス様は語ります。

病気の根本とは何なのか。ここになって、本来の問いかけに戻ります。神様が律法を通して求めておられることとは何か。それは憐れみであり、生贄ではない。律法の本質にはいけにえ主義があり、たとえ自分の人生を捧げていくような献身をしても、愛(アガペー)がなければ、素晴らしい説教さえ、騒がしい銅鑼になってしまう。私はそのことを恐れつつ講壇にたっています。

憐れみとは一体どういうことだろうか。健康体に戻って行くためには、その罪人たちが、神様の前に来て悔い改めることが、同時に病気から解放され癒され、健康な霊性にもどっていくこととなる。悔い改め(メタノイア)という言葉は、日常では、狂気が正気に立ち戻るという表現が近いでしょう。

人間は、だれしも狂気を抱えている。病人と診断される。あなたの狂気度は8、などとは判定できません。律法は、悔い改めを起こすための手段であったが、律法主義によってその役に立たなくなってしまった。ファリサイ主義により、むしろ病気をひどくしてしまった。

宗教行事で、一番大事なのは、断食。真剣にやっているのは世界の中でイスラム教徒でしょう。手を洗い、さまざまな行いをする。良い宗教家、律法家の生き方の実践、外形的行為として、一日200回手を洗い、清潔でなければ耐えられない雰囲気。そして断食。だが、その根底には、「俺は義人だ」という自己意識がある。

神様の前に出たときに、恥じることなし。それができない人たちを見下げる差別意識も同時に存在していく。その根性そのものが、病気の原因なのだよと。だが、その狂気を癒す手段はないのだ。

イエスさまは、あなたがたは憐れみの心を学ぶ(マテーテー)ようにと語ります。憐れみと愛を学び、罪と狂気を認識するように。私は教会というところは、自分が抱えている罪の本性が、どれぐらい狂気にさせているか。それがどれぐらい酷い病気なのか、まず、自己診断しなければならないと指摘する。教会はその診断をする場であり、狂気から正気に立ち戻る場であるべきであった。精神分析の中で、エーリッヒフロムが狂気を分析たが、狂気を学ぶところから、癒しが健康が回復して来ることになる。マタイが、徴税人を弟子とすることの意味がそれであった。

健康を自認する者が、いかに狂気に捉われているか。病を自覚し、癒される必要があること。教会とは、罪とは何かを知り、罪をどういう風に自覚し、罪からどのように悔い改めていくか。その旅道です。

その点で、教会に来ている人間ほど、汚い人間はいないとも言えます。それは罪を知り、神までも利用する。教会まで利用する。自己実現のために、家族さえも利用する。その最も壮絶な現場が、教会である。

なぜなら、罪がわかっており、組織の中で、主導権を握る、ということ。罪の意識の中で、その意識がある。悔い改めて行くこと。仕えていくこと。捧げていくこと。それは、生身の人間ではできません。それは、神の直接介入によってしかできません。狂気から解放される道を、指示してくださった。愚直にうけいれてきたのが、メノナイトという言葉で呼ばれるアナバプテストの人たち。

 神が地上にこられたことを発見したのが福音書。そこを生きようとしたのがパウロ。だが、弟子たちは、誰が一番偉いか、論争をした。だが、マタイは、その論争には出てこない。ルカとペテロ、ユダとペテロが、壮絶な論争をした。イエスさまは、あなたがたは、先に立とうとする者は、仕える者とならなければならない。逆ピラミッドの底に立つことが、神の前に最も偉大な者であると。ベンエロヒーム、神の子こそが、底に立たれたからである。

骨の髄までしみ込んでいる主導権あらそい。ユダはイエスさまを棚上げにしようとしたのでしょう。だが、マタイは、その争いから解放されていたことでしょう。私は、本来、罪びとと同格におかれた者であったという自覚があった。マタイは、一番イエスさまに感謝していたことでしょう。散らされた弟子たちの中で、マタイの福音書を書き記すミッションが与えられたのがマタイでした。

私たちは、どちらでしょうか。マタイでしょうか、ユダでしょうか。私たちは、狂気から解放されなければならない。日本語で、気違い、気が違う。どう違うか。それは、狂っている。あなたがたは全員、気違いなのだ、と。目くそ鼻くそを笑うのが、日本の得意技であります。教会の中でも、壮絶なことがおこる。教会の中でも、主導権争いがおこる。私たちは、イエスさまの弟子の道を歩むことが赦されているという信仰の基で、これからも、日々の生活を歩んで行きたいと思います。【共同責任編集 石戸充・古田雅士】